お知らせ


ひょうげ祭り当日(R5 9月10日)の模様

令和5年のひょうげ祭り

2023.07.14

令和5年度のひょうげ祭りは、9月10日(日)を予定しています。実施に先立ちまして、例年通り

今年のひょうげ祭り写真を一般募集します。

昨年までは新型コロナウイルス感染症の影響にて、対象者を県内に限らせて頂いておりましたが、今年は通常に戻して広く募集いたしますので、宜しくお願い致します。

ダウンロード
R5ひょうげまつり写真一般募集(チラシ)&応募用紙.pdf
PDFファイル 439.7 KB

2022.10.07

令和4年9月11日、ひょうげ祭りは「新型コロナウィルス感染症対策」と「ひょうげる」事を両立しながら、念入りに準備して、且つ多くの方のご指導、ご支援、ご協力に寄りまして、無事執り行う事ができましたこと、感謝申し上げます。

以下にて、各種メディアで紹介されましたので、ご紹介します。

 

1.9月13日 読売新聞 「しこく300°」

2.9月23日 日本農業新聞「3年ぶりの祭り」 日本農業新聞動画サイト

3.ケーブルメディア四国(CMS111ch) 10月度 コミネットTV 16:30~浅野校区(下記参照)

4.同上                  10月度 讃岐由来帖

5.同上        (   121ch) 10月度 ふるさとケーブルネット

6.(終了しました)RSK山陽放送 10月22日(土) 15時~

   再放送:来年(令和5年) BS12 7月8日土曜日 18:00~18:55

  ダイドーグループ日本の祭り「ふざけて笑って!平六さんありがとう~香川・ひょうげ祭り~」

7.文化庁令和3年度補正予算事業「地域の伝統行事等のための伝承事業(公開支援)

  によるNHKエンタープライズと(株)オマツリジャパンの支援を受けた、ひょうげ祭り特設サイト

 


2022.08.16

 

今年のひょうげ祭りは、以下の取材及び文化庁による「地域の伝承行事等の為の伝承事業(公開支援)」を受けております。

 

◇取材関係

 RSK山陽放送 放送日時:10月22日(土)午後3時(翌2023年、BS12にて全国放送予定)

 

◇文化庁の伝承事業支援

 ・感染対策関連支援   感染症対策事例や特設サイトにて魅力や特徴をWEBで発信。

 ・継承支援       歴史や特徴などを解説する10分程度のPR動画を作成。

 ・プロモーション支援  ホランティア等の集客企画支援

 

 特設サイトはこちら


2022.07.15

令和4年度の「ひょうげ祭り」は、新型コロナウィルス感染症対策をしっかりと実施した上で、執り行います。

また、写真コンテストも例年通り実施いたしますが、多方面からの来場を避けて密にならないようにとの配慮から、香川県内在住者に限らせて頂きます。ご理解の程宜しくお願い申し上げます。

 






ひょうげ祭り

 

ひょうげ祭りは、既に香川県や高松市などでも紹介ページを有しておりますので、そちらも参照ください。

 

※高松市ひょうげまつり

※香川町ひょうげ祭り保存会

※WiKipedia

 

以下に、香川町の民俗⑤「むらむらのまつり」から「ひょうげ祭り」を引用(編集)します。

 

(1)祭りのあらまし

黄金色に実った稲穂がさわやかな秋風に揺れるころ、香川町浅野の高塚(たこづか)山にある新池神社(池宮さんともよぶ)を中心にくりひろげられる祭り、それがひょうげまつりである。祭日は旧暦の八月三日である。

この祭りは古くから浅野地区の人たちの手によって継承されており神輿の渡御に使われる神具(一式が県指定をうける)はすべて農作物や家庭用品などを中心としたもので整えられている。

供侍(ともざむらい:神輿の巡幸に参加する供奉人(くぶにん))となる人たちはそれぞれに工夫をこらした仮装をし、色あざやかな顔ごしらえをする。神幸の順路は浅野高塚山の頂上から東赤坂ー坂下ー道端ー赤坂ー丸山ー新池(香川町大字川内原)までの二キロ余りで、その間をひょうげてねり歩く。

ひょうげるとはおどけるとか滑稽というくらいの意味であり、ひょうげまつりという呼び名もここからつけられたものであろう。この祭りについては、新池を築いた人の功績をたたえるとか、豊作の祈願ないしは感謝などと意義図けられているが、香川町内の一部には古くから地蔵盆の日に造り物といって、野菜や家庭用品その他で人形などを作って見せる風習があった。それがいつの頃からかこの祭りにも採り入れられたものであろう。

 

(2)まつりの起源

まつりの起源はさだかではないが、新池築造の主人公といわれる矢延平六(やのべへいろく)の事略(じりやく)や土地の言い伝えなどから考えて、約三百余年前のことかと思われる。かつて浅野地区を八地区の八頭組に分けて毎年一組ずつで行っていた。浅野土地改良区、県および町の助成、町商工会、浅野農協などの後援もあり、郷土の文化遺産が多くの人々の手によって支えられ受け継がれてきているのである。

(中略)

 

(3)新池築造の伝説

この池は寛文年間(一六六一~一六七二)に藩普請として、藩の費用で築造されたものと伝えられ、次のような伝説が残されている。

「もともと、浅野村の土地は高低がはなはだしくかつ荒廃地も多かった。藩では開墾はさせたけれども水の便が悪く灌漑用水には非常に困っていた。これを見かねた藩では矢延平六らに命じて溜池をつくらせることになった。平六は大河原某および篠原某らと話し合い、川東上村の西を流れている香東川の水を引いてくることにした。暗夜にちょうちんや松明によって人々を遠く離れたところから見通して土地の高低を測定し、多くの労力と歳月を費やして、遂に川内原に面積二十六町歩にわたる新池を築いた。平六と大河原、篠原の両氏は三谷村(高松市三谷町)犬の馬場に住んでいたので、この新池の水は犬の馬場方面にも引かれるようになった。

農民たちの喜びはひとしお大きかったが、ここに一大事が起こった。

それは平六がこの池を築いたのは『高松城を水攻めにするためである。』と領主にざん言をした人があり、それによって平六は裸馬に乗せられて阿波の国に追放されてしまった。ある年の旧暦八月三日のことであった。

平六を慕う地方の農民はその行方を求めたが、遂にその姿を探し出すことができなかった。そこでせめてそのご恩に報い、これを後世に伝えようと新池を見下ろすことができる高塚山の頂上に小さな祠を建てて、神様としてこれを祀った。これが新池神社である」という。

 

今年もまたひょうげまつりの季節がやってくる。夏の暑さとたたかいながら泥に足を踏み入れたかいがあって、稲穂が重たそうに頭を垂れている。その中を素朴で土のにおいのする行列がえんえんと続く。祭りを行う人も見る人もすべての人が恍惚とした気分にひたっている。

父から子へ、子から孫へと受け継がれてきたこの祭りを、こよなく愛し育ててゆきたいものである。

 

                                                 以上